津々浦々にて待つ

思いついた愚痴をうららかに書き始めるから、結びがぐだる

天ぷらで一番好きなのはカボチャ

 こんばんは。天ぷら好きですか?古きよき日本料理ですよね。適当ですけど。天ぷらといえば、一番好きなのは、カボチャの天ぷらです。獅子唐とかさつまいも、イカなんかも良いですね。ちなみに、塩じゃなくて天つゆで食べます。天つゆこそ至高。やきとりもタレです。

 カボチャといえば、今日はハロウィンですね。仮装しましたか。そもそも、ハロウィンがどういうイベントなのかイマイチ把握してません。子供が『トリックなんとか』って言ってお菓子をせがみに来る(恐喝)か、コスプレするイベントという認識です。イースターとかと関係あるんでしたっけ?まあ、いいや

 

ヒトカガミ

 こんばんは。めっきり寒くなりましたね。唐突ですけど、夏と冬どちらが好みですか?僕は冬のほうが好きです。冬はおしゃれが出来るからとか、雪が好きとかってわけではなく、なんとなく静かで暗い感じがいいんですよね。音楽も映画も本も、少し暗いものが好きなので。

 

 『鏡に写る自我』という言葉をご存じですか。社会学者クーリーの言葉で、つまりは、自分がどういう人間なのかは「他者という鏡を通して理解する」というものらしいです。親に、兄弟に、友達に、恋人に、他人にどう思われてるかによって、自分という人間がどういうものなのか初めてわかる。僕が、自分は賢くて優しくてまじめで、イケメン貴公子だと思っていても、周りがそう思ってくれていなければダメだということですね。

 

 大学生、社会人ともなれば、自分がどういう人間かがある程度わかるようになってくるのでしょうか。いわゆる思春期は不安定で、昔と今は性格が変わってるなんてこともあります。思うに、人が友達を作ったり恋人を欲しがるのは、自分を理解してくれる存在が欲しいから、というのもあるのでは。もちろん、親・兄弟も理解者でいてくれる場合が多いと思いますが、親・兄弟には埋められないものもありますよね。

 では、自分を「理解」してくれるとはなんでしょうか。

 そもそも本当の「自分」とはなんでしょうか。

 僕の好きな漫画で、「モテキ」という漫画があるんですけれど、その最終巻でヒロインが

『本当の私、を理解したなんて思い込みだか思い上がりが嫌なの。そもそも知ってもらいたい本当の私なんてないし』

『100人いたら100人の頭の中で見える私って全部違うのよ。そんなの全部責任持てないわ。どうでもいい』

っていうセリフがありまして(こんなこと言ってかっこつけてるけど、とんでもないビッチなんですよこいつは!)、当時のうぶな僕はチェリーながらに納得してしまったわけです。ある友人には、賢くて頼りがいのある人だと思われてるけど、ほかの友人には馬鹿でおっちょこちょいだと思われてたり。清楚できれいな人だと思っていたけど、下ネタ大好きだったり。結局は、確立した『本当の自分』なんていないのかも。

 とは言っても、さすがにある程度の限度はありますよね。美人な女の子には優しいけれど、男や普通の女には当り散らすような人が、『優しい人』だなんてあまり思われないだろうし、家の外ではいい母親を演じているけど、家では子供を虐待している人が『いい人』だとも思われないでしょう。

 今までは、内面のことについて言ってきましたけれど、外面についても同じようなことが言えます。ある人は可愛いと思ってるけど、別の人から見れば可愛くない、とか。

 

 だいたいまとめると、『本当の自分』はいないのかな、と思いました。それでも、友達や恋人に「本当の自分」をわかってほしいと思うのは、自分の多様な部分をさらけ出したいからでしょうか。外ではまじめ、友達には頼れるやつと思われていても、恋人の前では赤ちゃんプレイをしてたり笑。

 

ps 整形は、本当の自分、かな?笑

 

 

  

味噌汁キャベツ女、便座上げ男

 好きな仮面ライダーはG4です。こんばんは、台風一過ですけど、ちょい風強いですね。休校になったんですけど、惰眠を貪ってました。

 仮面ライダー見たことあります?男の子なら恐らくは見ているはずだと思いますが、僕もそれに漏れず見てました。小さい頃はストーリーとかあまり気にしていなかったんですけど、結構入り組んでて難しい話だったりするんですよね。とくに平成ライダーは。龍騎とか今見てもよくわかりませんもの。昔は、仮面ライダーって悪いヤツを善いヤツがやっつけるっていう話だと思ってたんですけど、よくよくストーリーを見ると案外そうでもなかったりするんですよね(555のオルフェノクの件とか)。つまり、水戸黄門に代表されるような『勧善懲悪』とはハッキリ言い切れないのです。
 そもそも、勧善懲悪の話って最近はそんなに無いような気がするんです。有りがちなのは、悪だと思われていた敵側にもやむを得ない事情が実はあった、みたいな。ちょっとずれますけど、コナンとか金田一の犯人もたいていは理由があって罪を犯すわけで。いや、確かに理由なく悪いことするなんて現実味が無いんですけど、そっちの方が悪がやられたときにカタルシスが得やすいじゃないですか。その点、ネウロに出てきたシックス[絶対悪]は良かったと思います。

 本題。要は、それぞれの立場にはそれぞれのイデオロギーやモラルがあるってことです。今Twitterで話題になっているベビーカーの件(詳しくは自分で見て欲しいです)も、記者はそう考えているし反論している人は別に考えているわけです。別にベビーカーを邪魔だなと思うことは個人の自由ですし、子供のことを考えられない、子供を持ったこともない人間が偉そうなことを言うな、と思うのも自由です。ただ、僕が思うに、記者の側はなんとなく自分の言ってることが叩かれたり、間違っているかもしれないな~と思いながら書いているような気がするのに対して、Twitterで叩いてる人たちは自分の意見こそが唯一解で、それに反することを言うヤツは人に非ず!みたいな勢いだったのがなんとなく嫌だなあと思いました。言ったように、各々には各々の考え、道徳があるわけです。そのことを忘れている人は多いように思います。まあ、偉そうなことを言ってる私もそうなんですけどね!
 
 各々の価値観を尊重していこうという風潮は、意外にも最近出来たもののようです。昔は、社会が小さく(いわゆるムラ)、個人の概念が弱かったからですね。現代自由主義的な多文化社会、昔風の共同体社会。とにもかくにも、今は『個人』を尊重する社会ですから、それゆえに他者に対して寛容でなければいけないと思います。
 で、突然ですが、皆さんは味噌汁にキャベツ入れますか?ウチは入れません。じゃあ、カレーにリンゴ入れますか?ポテトサラダにリンゴ入れますか?カレーとかハヤシライスは、ルーとライスを混ぜてから食べますか?ぼくは、リンゴはどちらにもいれないし、かき混ぜることもしません。あと、昔自宅に人を呼んだときに、コップ(取っ手つきの英語でいうcup)に冷たい麦茶を入れて出したところ、『え?!これ温かいのを入れるやつじゃないですかー』と言われたことがあります。
 どうですか?自分では当たり前だと思っても、周りにとっては当たり前ではなかったり逆もまた然り。まあ、これが便座を上げる上げない程度なら良いですけど、夫の鉄道模型が気に食わないからって全部捨ててしまって離婚されたり、はたまた他の宗教が気に食わないからって戦争をはじめたり。そういう大変なことにならないように祈るばかりですねぇ。

追伸 昔の僕は、飲み物を飲んでるときに『一口ちょうだい』って言ってくるヤツは消えて欲しいと思っていましたが、今は寛容になりました(/▽\)♪

まあ、断る人を『ケチなやつ』とか『心の狭いやつ』と見るか。一口さんに対して『人にたかってばかりで卑しい、気持ちの悪い下錢な愚か者で、きっと家族も貧乏な可愛そうな家に産まれた残念なやつなんだな。そう、こいつがゴミ野郎なのはゴミ自身のせいなんじゃなくて、そんなゴミを生み出してしまった社会が悪い。ひいては、その社会の一員たる自分も悪いんだ。よし、一口くれてやろう』と思うかはあなた次第ですよ(/▽\)

ちょっと話聞いてょ

 夏休み終わりそうです。生活習慣が改善されないままなので辛いです。
 こんばんは。悩み事ありますか?大半のひとは悩み事ありますよね、多分。悩みがあるときは、それを解決しようとしたり、ストレス発散のために色々なことをすると思います。その中でも割とメジャー(?)なのが『相談』です。自分のことを人に話すか話さないかは各々だと思いますが、多かれ少なかれあると思います。
 相談したこともされたこともあるでしょうが、どういった対応をするかは人それぞれではないでしょうか。というわけで、ダラダラとちょっと考えてみます。
 
 する側
その1 ただ話を聞いてほしいタイプ
 自分の話に共感してほしいわけでもなく、相談内容への解決策を求めているわけでもなく、ただ話を聞いてもらいたい場合。相手がどういう返答であろうとも話を聞いてもらえれば満足なので、相談される側にとっては楽かもしれない。ただ、聞いてもらうことが目的なのでゴールが不明確でぐだる。
その2 共感してほしいタイプ
 話を聞いてもらうだけでなく、共感や同意を求めている場合。自分のなかでは結論が出ている場合が多く、相手の意見を伺っているようで実は背中を押してもらいたがっている。相手から否定的な意見が出ると、不機嫌になったり『でも~~』といったように反論される。
その3 叱ってほしいタイプ
 とりあえず、自分が悪いこと・自分に原因があることなどはわかっている上で、そんな自分を叱ってほしい場合。『叱ってほしい!』と口では言う人が多いものの、実際にはその2の共感タイプであることがほとんどなので見極めが困難。文理解釈して本当に叱ったりダメだしすると、人間関係に亀裂が走る可能性がある。また、相手のメンタルによってどの程度のレベル(諭す~罵倒レベル)まで耐えられるかが異なるので、叱り方にも細心の注意が必要。総じて難易度が高くリスクが大きい。
その4 解答を求めるタイプ
 相談内容に対して何かしらの解決策を求めている場合。解答を提供出来たときには相手からの信用はうなぎ登りである。また、共感・同意であってもその人自身の解答と言えるし、たとえ正しい答えを示せなくても意見を出すことで相手からの期待にはある程度答えたことになり得る。ただし、調子にのって説教を始めたり叱ったりすることは厳禁。

 される側
その1 共感タイプ(善
 相手の話に頷き、そして肯定的な態度を示すタイプ。本心から同意している場合、または同意しきれない部分があったとしても相手の慰めとなるために肯定的である場合などがある。よく見かける『女の相談は解決を求めているのではなく、共感を求めている』という説に則ると、女性に相談を受けた時の模範パターンで相談者からのウケが良いタイプ。デメリットとしては、その場の意見が偏ってしまうため相談内容の状況を打開することが難しい。
その2 共感タイプ(中庸、悪
 とりあえず話は聞かなければならない場合に波風を立てないように相手に同調するタイプ。または、何らかの意図があって同調するタイプ。相手の意見内容に興味がない、または全く同意出来ていないのに同調してしまうので、明らかに相談者がおかしい場合にもそれに拍車をかけてしまう危険がある。意図的に相談者を陥れようとして同調することもある。本心からの共感ではないため、仮に相手がどうなろうと知ったことではなく精神的な負担が少ない。
その3 解答タイプ(善
 相手の相談に対して何らかの解答を述べるタイプ。相手と違う意見を言うときはもちろんのこと、共感・同意の場合であっても根拠や理由などを伝えるタイプ。相手のことを考えた上で真剣に意見を出すので、よい相談相手になり得る。しかし、相手への配慮が足らず、自分の意見・考えを押し通そうとすると独善的で説教タイプとなってしまい疎まれる。
その4 解答タイプ(悪
 何らかの意図があって、あえて相手のデメリットになり、自分のメリットになる状況へ誘導するタイプ。外から見るとその3のタイプと違いは無いが、周りが知らず知らずのうちに本人の思い通りに事が運んでいる。非常に賢い人である事が多く、ドラマの中とかでしかお目にかかる機会はなさそう。
その5 説教タイプ
 本人に悪気はないのかもしれないが、相談者に対してアドバイスを越えて説教を始めるタイプ。説教の内容が正しい正しくないに関係なく、いきすぎると反感を買う。空気が読めない人、自己主張が強すぎる人が陥りやすい。
その6 転換タイプ
 相談者の話を聞いていたのに、いつの間にか自分語りを始めるタイプ。『わかる~。あたしも~』のようにいつの間にか話者が転換してしまい、相談者が被相談者になる。極々まれに好意的に捉えられると『天然』や『ゆるふわ』等と言われるが、人の話を聞かないのでほぼ嫌われるタイプ。非常に特殊。


追伸 巨人v3おめでとうございます
あ、あと東京でやるオクトーバーフェスもどきに誰か行きませんか?


 

気にくわなければ、刺せ。

 カブトムシの交尾見たことありますか?とてもカクカクしていて面白いですよ。おすすめです。

 おはようございます。突然ですが、皆さんは何か法に触れるようなことをした経験はありますか?ちなみに、私はあります。たとえば、同級生を殴るとかモノを壊すとか。それで警察に捕まったわけではないですが、事実そのものを見れば法律によって禁じられていることをしているわけです。
 さて、皆さんのなかで警察に捕まって何らかの形で前科がついた人は殆どいないと思いますが(何人かはいるかも)、なぜなのでしょうか。警察にばれないように上手いこと悪さをしてるから?多分違いますよね(笑)。単に悪いこと自体していないのだと思います。じゃあ、なぜ悪いことをしないのでしょうか。欲しいものがあったら盗み奪い、気にくわない人間がいれば傷つけたり殺したり、良い女がいれば犯し、イライラすればそこらに火をつける。自らの欲求のままに動かないのでしょうか。
 理由その1 やってはいけないことだから(道徳的に抑制される)
まず考えられるのは、『やってはいけない』となんとなくわかっているからです。盗んではいけない、殺してはいけない、犯してはいけない。理屈で『なぜ』となる以前に、『ダメなものはダメ!』となっているのです。今までの人生、あらゆる機会にこうした価値観・道徳観が植え付けられてきています。親から、親類から、教師から。むしろ、『なんで人を殺しちゃいけないの?』『なんで盗んだらいけないの?』などと中学生・高校生が真面目に聞いてきたら、危ないやつヤバイやつだと思って避けるでしょう。
 理由その2 やると捕まるから(利益より不利益が大きい)
多くの人は、理屈じゃなく悪いことをしてはならないと考えます。それでも、あえて『なぜダメなのか。』を考えたときに最も答えとして挙げられそうなのがコレです。『法律で決まってるから』です。大半の人は警察に捕まって裁判にかけられて臭い飯を食いたいなんて思いません。刑罰、または罪を犯したことによる社会的な影響によって被る不利益の存在が、人に悪さをさせないようにしているのです。ただ、この理由だと『捕まらなければいい』とか『バレなければいいい』。挙げ句には『捕まるよりも悪さをした方が得だからやる』というようなことにもなってしまい、悪いことをしてはいけない理由に必ずしもなっていないような感じがします。また、法律で許されていればいいのかということにもなりますよね。仮に(あり得ないけど)、ムカつくやつは殺してもOKという法律が出来たとして、それで本当に人をバシバシぶっ殺していくことは『悪いこと』にはあたらないのでしょうか。そんなことないですよね。悪法も法なり、ではないということです。
 理由その3 平和に生きたいから(ホッブズ的考え)
『万人の万人に対する闘争状態』の回避のため。平和な社会を構築するため。という理由ならどうでしょうか。人間は放っておくと悪さをするから、皆が権限の一部を国家に譲り渡すことにより抑制しあう~という社会契約説のアレです。つまり、悪さOKにしちゃうと皆が皆悪さばかりするようになって平和に生きることが出来ないサバイバルになってしまうから、多少自分の欲求が制限されることになろうとも皆で譲歩していこう!というわけですね。なるほど、なんだか説得力を感じますね。

 つまり、その2のようにルールがあるからダメ!なのではなく、その3のように皆のためのモラルがあってそれを明確化させたのがルール。だから、ルールに従って悪さをしちゃならん、という。

 グダグダと書きましたが皆さんはどう考えますか?
考えは人によってだけでなく、同じ人でも状況によって大きく変わります。悪さをするときがいつか来るかもしれませんよ?

ps ホッブズとルソー、どっちがどっちかわからなくなってしまった。

悋気

 妬み、嫉み。人を憎む、妬む、羨む気持ちは誰でも持ちうる。そして、誰でも持ちうるものなのに、皆それを良くないことだと思って忌避します。

 恐らく、人に嫉妬したことのない人はいないのではないでしょうか。かくいう私も嫉妬しやすい性質なのか、色々と羨みます。海外へ行く人、独り暮らしをしている人、バイクに乗っている人、好きな女性の想い人、彼女がいる人などなど、、半分くらい冗談です。
 皆さんは嫉妬したときどうしますか?対象をどうにかしようとする、努力する、攻撃する、すがる、泣く、寝る、酒を飲む。辛い思いをするかもしれません。みっともないと思うかもしれません。嫉妬したせいで心を乱し、他人を傷つけ自分を傷つけ、取り返しのつかないことをするかもしれません。不幸せになるかもしれません。けれども、必要な感情だと僕は思うのです。嫉妬があるからこそ、どうにかしようとするパワーが生まれるのです。大事なのは、その気持ちにどうやって折り合いをつけていくかです。目を背けないで付き合いかたを考えていかないとならない。

 じゃあ、どうやって折り合いをつけていくのでしょうか。僕にもわかりません。カラオケで歌を歌って発散する?好きなだけモノを食べて心を埋める?泣くだけ泣いてスッキリする?ものに当たって忘れてしまう?人に話して吐き出してしまう?色々と方法はあるかもしれませんが、各々に合ったものがあるのでしょう。ただ、嫉妬の対象を巻き込まずに、折り合いは自分の中でつけていかなければなりません。誤って折り合いをつけようとすると、ストーカーになったり危害を加えたりするようになってしまいます。

  続く、かも。

誰何

 すいか、と読む。刑訴をとっていたら馴染みのある言葉かもしれないですね。こんばんは、スマフォの気温表記だと20℃下回ってます。秋ですね。

 誰何というのは、端的にいえば『相手が何者かわからないときに呼び止めること』らしいです。

 本来の語義から外れてしまうのですが、私は人と話すときによく質問をしてしまいます。その人自身のことや最近あったこと、家族の話、友人の話など。あんまり聞くものだから、『しつこい』とか『うざい』と言われることもしばしばあります。ごめんなさい。
 なぜそんなに人の話を聞きたがるかというと、まあ単に聞いてて面白いということもありますが、その人と仲良くなりたいという意図があります。話をすること自体もコミュニケーションを深めますが、様々な話題を共有することで親近感がわきます。なので、僕が色々話を聞いているときはコイツ仲良しになりたいんだな、と思ってあげてください。恐縮です。

 ところで、また話が変わりますが、皆さんは『優しい』人だと言われますか?ちなみに、僕は言われません。一般的には(俺がそう考えているだけだが)、周りに気を遣える、自分よりも人のことを考えられる、そういう人が優しいのだと思われています。私も最近までそう思っていました。しかし、皆が皆そういう人間ではないのではないでしょうか。むしろ、他人に興味がないからこそ優しく(表面的に)出来てしまうということもあるのではないでしょうか。八方美人のような。まあ、そもそも『優しさ』の定義ってなんだよ、という話にもなるので何とも言えないのですけれども。
 言いたいことは、優しいからといって興味関心がある、仲良くなりたいと思っているとは限らないということです。無関心ゆえの優しさもあるのではないか、と。