津々浦々にて待つ

思いついた愚痴をうららかに書き始めるから、結びがぐだる

親切の代価

さっき電車で妊婦が陣痛?でうずくまってたのに誰も助けなくてワロタ : 結婚・恋愛ニュースぷらす http://blog.livedoor.jp/kekkongo/archives/1824994.html

 昨今、とくに東日本大震災以降は、やたら『絆』ということが言われるようになった。そして、絆の大切さや相互扶助の必要さが叫ばれるようになった。一方で、核家族や一人暮らしが世帯の多くを占めるようになった現代社会においては、『プライバシー』が叫ばれるようになり、互いが自由で干渉をしない、受けないことが是となってきたようにも思う。そこで聞こえてくるのは、『日本人は冷たくなった』という言説である。

 個人差はそれぞれあるとしても、日本人全体が本当に『冷たくなった』のだろうか。僕自信はまだ若造のペーペーだから、昔と今を比較して考えることは出来ない。それに、人というのは懐古が好きで昔を美化したがるものだから、過大に評価しているということもあると思う。けれども、引用した話や事件に対してカメラを向ける話、日々のニュース等を見ていると、確かに、現代が『親切』な社会であると手放しに評価は出来ない。もちろん、世の中にはたくさんの親切エピソード、イイハナシーサー(懐)はあるだろうが。

 『人に親切にする』は、恐らく大半の人が1度は言われたことのあるフレーズだと思う。小さい頃から親なり教師なりに言われ続けたフレーズである。そして、言われた当初も今も、それが間違っていると思う人は殆どいないはずである。けれども、他人にまで親切な人は、そうそういない。なぜだろうか。

 思うに、それは個人の権利、自由が重要視されるに従って、上に述べた通り『干渉を嫌う』ようになったからであろうか。また、親切を『コスト』だと考えるような人がある程度いるから、ということも考えられる。

 
 それっぽくちゃんとして書こうとするのに疲れたので適当に思ったことを書きます。

 親切というけれど、お節介という言葉があるように、結局は行動が受け手の評価によって決まるように思う。例えば電車で席を譲ったときに『結構です』くらいならともかく、『そんなに年取ってねーよ』とか『は?余計なお世話や』みたいな反応をされると2度と親切なぞしないと思ったりもする。親切でなくなったというが、親切を与える側だけでなく受けとる側にも問題があるのでは。
 というか、そもそも、親切を『与える』『受けとる』だと思っているこの考え方自体が間違っているようにも思えてきた。親切はそういうものじゃなく、内発的に湧き起こってくる一種の現象のようなものなんじゃないかという気がしてきた。温泉が涌いてきたときに、『与えられた』と思う人はいないだろう。あくまで、『温泉が涌いた結果、温泉街ができた』ということである。そう考えると、なんだか親切に対してコストとかお節介とかいう問題がなくなって気がしたゾ。
 と思ったら、今度は『湧いてくる』はずの親切が『人に親切にしなさい』という風に言われなきゃならんのだ。それが強制じゃなくて規範的、奨励的な意味合いの文言だとしても、つまりは、自発的に意思に基づいてやれ、といってるのだから、やはり内発的に湧き起こるものじゃなくて、与えるものなんだという考えに則ってるのか?!!まあ、道徳全般そんな感じだし、、(道徳教育という言葉のヤバさ)。

 あと、いい忘れたけど、親切をコストと考えるというのは、ギブアンドテイク的なことじゃなくて、『触らぬ神に祟りなし』的な発想なんじゃないかと。個人主義な現代だと他人に干渉することがリスクになるわけで。で、またここで思ったのが、所謂個人主義は西洋からもたらされた云々という認識だったんだけど、アメリカ人とかヨーロッパ人は優しいという人もいるし、個人主義だから親切じゃない社会というわけでもないのか~?

親切じゃない人間はイチイチこんなこと考えません。
親切じゃない人が親切をするときは、リターンは求めずにリスクを受容して臨みましょう。

親切にされたい人は察してじゃなくて、ちゃんと言葉に表しましょう。ほら、席を譲ってほしいなら顔芸しないで口頭伝達しなさいよ!