津々浦々にて待つ

思いついた愚痴をうららかに書き始めるから、結びがぐだる

マリッジカウンター

 まあでも、『男は金』といっていたやまとなでしこも、結局はハンサムな堤真一と結ばれるわけだし、やっぱり顔だわ。
 
 昨日、金目当ての方がある意味平等であるといったのは、それは能力や努力でどうにか出来るとの考えに依るわけで、たとえば親が社長だとか石油王なんて場合は想定していない。
 金を稼ぐ能力が当人の能力や努力に依るものだと考えると、金を目当てにするということは、その人の能力や努力を評価していると言えるのではないか。すると、『顔』で選ぶよりも良心的に思えてこないかい。
 
 かといって、ぼくがそういう人と結婚したいかというとそんなわけもなく。では、何を以て評価されたいのだろうか。
 世の人の大半が求めるのはやはり『性格』だろうか。『外見』や『顔』で選ぶよりもずっと良心的だとされているし、それで判断するのが最良だと皆思っている。しかし、考えてみると『性格』ほど曖昧で不確かな基準もないだろう。
 個人的な考えとして、『性格』には不変の一本柱のようなものはなく、常々変化していくものだと思う。ぼくも、小学校のときはクラスの中心で文武両道を体現していたが、今となっては部屋にひとり籠ってカビが生えている。付き合い始めたころは優しかった彼氏も、しばらく経つとLINEに返事をしてくれなくなり暴力を振るったりするし、付き合っていたころは優しかった彼女は、別れた途端に冷たくなったりもする。出会う前の相手と出会った後の相手は別人であるし、出会った後でもまた別人なのである。
 また、『性格』は、対象によっても変化する。部活では怖い先輩も、同期に対してはおちゃらけた態度をとっているかもしれないし、彼女の前では赤ちゃん言葉で甘えているかもしれない。男のまえでは猫かぶりしている女も、バイト先では気にくわない後輩をいびっているかもしれない。『性格』は絶対ではなく相対なのだ。
 
 そんな不確かな『性格』を元にして、大半の人は人生を決定しているのかと思うと不思議な気持ちになる。本当にみんな『性格』が一番大事だと考えて実践しているのだろうか。どうなんでしょうかねえ。


ついしん 毎年言っていますが、1年生は早くサボり癖をつけて学校に来ないようにしましょう。食堂が快適になります。