津々浦々にて待つ

思いついた愚痴をうららかに書き始めるから、結びがぐだる

姥を捨てない山

 ほとんどの人は日常的に電車に乗ると思いますが、席に座れるか否かは運次第です。中には、席には座らない!というポリシーがある人もいると思います。

 いまどき、ほぼ全ての電車に『優先席』が設置されていて、妊婦やけが人、年寄りの方が優先的に座席を使用出来るようになっています。なぜ赤の他人の利得になるようなことをしなければならないのでしょうか。互恵的利他理論とかナントカ難しい話になるのでそれは置いておいて、個人的に怪我人と妊婦に関しては納得出来ます。怪我人を優先することは、自分が怪我をしたときのリターンを期待するとか、妊婦さんは将来への投資のために優先するとか。ただ、なぜ年寄りに席を譲らなければならないのでしょうか。未来に対して有用であるとは言えないだろうし、では、自分が老人になったときに席を譲られるのを見越して今優先しているのか。

 お年寄りを敬う、というのは教育によって植え付けられた慣習のようなもので、親族やメディアによって大切にしましょう大切にしましょうという刷り込みがなされ、結果として今の倫理観道徳観が作られます。昔はお年寄りを敬うことに一定の意義がありました。それは、長く生きた経験や知識は代え難く貴重なものであり、ムラ社会にとって必要不可欠だったからです。いわゆる、長老のような。しかし、現代ではあらゆる経験や知識は共有され誰でも手に入れることができます(ただし、土着の風俗や慣習などはこの限りではない)。

 また、生物学的に考えると人間は本来50歳程度で死ぬ生き物です。それが、なぜ8090まで生きるようになったか。一説には子孫を育てるためだといわれています。特に女性は閉経後は子孫を残すことが出来ないわけで、生物本来の役目を全う出来なくなります。それなのにまだその命を終えないのは、下の代を育てていく手伝いや援助のため、なんだと。実際に少し前まで、核家族が主で無いときはそうでした。しかし、我々は動物ではなくヒトなのですから、生物的な役目が全てではもちろんありません。

 今現在、なぜお年寄りを敬うのか、席を譲るのかということに対して論理的な説明は不要だし、そんなことをいうやつは不敬なおかしなやつだと思われるでしょう。ただ、高齢化社会へと突入し60歳以上人口が4割となれば若い世代との世代間抗争が起こってくるのは考えられるでしょう。50年100年後の倫理観道徳観は変わっているかもしれません。



というのを、電車のなかで考えた