津々浦々にて待つ

思いついた愚痴をうららかに書き始めるから、結びがぐだる

痛みを知らないクソガキ

 昨今、DVや児童虐待が問題と叫ばれている。最近も父親が子供をほったらかして保護責任者遺棄致死だかで逮捕されたような。女性や子どもといった社会的弱者(と今まで考えられてきた)への人権を保障する流れは、現代では当たり前となっている。だが、一昔前までは(正確なデータがあるわけではないが)親が子どもを殴るのは躾として当たり前だったようだし、教師による体罰もまた容認されていた。女は男の三歩後ろを下がって歩くものだ、なんて考えられてもいた。それが良いかは別として、歴史的事実として男>女という社会的関係は続けられていたのである。(ただ、ポリス時代は女性は神聖なものとして扱われていた文化もあるとかなんとか、ってマスターキートンで言ってた)

 今はまだ不十分ではあるが、女性の社会的立場は改善されつつある。一方で、子どもの権利(?)も認められつつあるようではある。だが、それによる弊害(?)もあるようだ。例えば、躾として子どもを殴るとすぐに児童虐待と言われたり、泣き声が聞こえたという理由で児相が家にやってきたり、である。

 躾のために子どもを殴っていいかということについては、各々意見のわかれるところだ。私見では、基本的にはダメだけどいざという時には致し方なし、だと思う。意見の違いが出る理由は、男であるか女であるか(主体も客体も)や各々の育ってきた家庭環境などによるだろう。ちなみに、ウチの親はガンガン殴ってきた。くそ、、、覚えてろよ、、やられたらやり返す、倍返しだ!(冗談)

 もちろん、法的にどうかといわれれば子どもにも人権は与えられているから暴力は許されないし、刑法的に考えても子どもだから阻却されるなんてことはない、と思う多分。でも、親には子供を監護する義務権利があるし、家庭内のことに公がどこまで介入出来るかという問題もあるわけで、子どもぶん殴ってすぐに後ろに手が回るなんてことはないのである。

 じゃあ、法的にはグレーゾーンだから子どもをぶん殴っていいかというとどうなんでしょうね。倫理で考えても『絶対的に許されない!』という結論にはならないんじゃないか。例えば、”儒教”という倫理で考えてみると、そもそも儒教は父子の関係を父>>越えられない壁>>子と説いてるわけで、まず子どもが親に刃向かうこと自体が考えられないし、師>>越えられない壁>>子でもあるから以下同文。すなはち、それでも子どもが何かをしたときはぶん殴って矯正することも認められるのではないか。(別に儒教について詳しいわけでもなんでもないので、間違っている可能性は十分あります、すいません)

 子どもを殴ってもいいという立場からさらに意見を出すとすると、『子どもは未熟な存在だから身を以てダメなものはダメと教えなければならない。』ということがいえるかもしれない。対大人なら、論理的・倫理的な説明によって自省を促すことが出来るし納得を得られる見込みがあるが、未熟な子どもはそれが見込めないから体感的にダメなものはダメと教える必要がある、という。なるへそ、まあ一理あるな、とも思える。ただ、『それは子どもに対してしっかり向き合っていない大人が問題であり、安易に暴力という手段を使うのは怠慢である‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎』という反論も十分可能である。また、安易に暴力という手段をつかうことで子どもの心に傷を負わせることになる!!とも言えそう。

 結局のところ、ある程度のレベルまでは、子どもを殴っていいかというのは各々の家庭の裁量によるわけだと思う。 どっちが良いかっていうのは自明ではないわけだから。

 『殴られたこともないひとに、殴られるひとの気持ちがわかるのか?!人は痛みを知ってこそ他者に共感出来るものである。痛みを知らないクソガキを反省させるためには、痛みによって矯正するしかないのだ!!!』


p.s 可愛い子どもは好きです、ぼくは。