津々浦々にて待つ

思いついた愚痴をうららかに書き始めるから、結びがぐだる

『ワリカン』よ、何を語る

『ワリカンで。』
『この前の男さー、会計のときワリカンでマジ萎えたわ~』
『いや、普通ワリカンだろ?なんで女に金使わなきゃいけねーんだよ笑』

 『ワリカン』とは、総金額を参加者数で割ることである。wikiによると、日本以外では珍しい文化らしいぞ。
 
さて、ここでは男女間のワリカン、つまりデートのときのワリカンについて語りたい。一昔前の日本、バブル期は『アッシー君、メッシー君』なんて言葉があったように、男が女に金をかけるのは最早当たり前といえた。金をかけない男は見向きもされず(イケメンなら別だとは思うが)、また男の方も女を振り向かせるためにプレゼントをあげたり車を買ってアピールをした。余談ではあるが、このバブル期には女子高生がオヤジたちに下着を売るブルセラショップなんてモノが出来たりして、まあ凄い時代だった。

 しかしそんな時代も、バブル崩壊、さらには女性の社会進出、男女共同参画社会への移行で落ち着いていくことになる。失われた十年という言葉に代表されるデフレ社会の到来で、女に金を貢ぐどころか自らの生計すら危うくなり始めた男たち。社会進出によって経済力や社会的地位を得て、もはや男に頼る必要がなくなった女たち。日本国民1億総ワリカン時代がやってくるのかに思われた、、、が。

 実際に、先の時代に比べればデートにおけるワリカンの割合は高まっていると思われる。しかし、依然として『男は女に奢るものだ!』という考えも根強く残っているのだ。なぜなのだろうか。それは、『男が女に奢る』という構図が、男女両方にとってメリットのあるものだからではないか。まず、女性の側としては支出を抑えられるという経済的メリットがある。さらには、ワリカンをしてくるか奢ってくれるかによって、相手の経済力や自分に対してどう思っているかを判断することができる。つまり、ワリカンか奢りか、が一種のものさしになっているのだ。一方、男の方では、ワリカンか奢りか、によって自分の気持ちや自らの経済力をアピール出来る。また、奢ることで自尊心を保つことにもなる。異論あるかもしれないが、やはり男が女に奢るというのは気持ちのいいものだ思う。『奢られ上手』な女性がモテるのもそういうことだろう。以上、『奢り』には男女間のセンサーとしての役割があり、だから意義があるのだ。。

 ただ、この考えには例外もあって、それは『学生』の場合である。経済力の乏しい学生では、二人分のデート代金を負担するというのは辛い。ただ、大学生はボーダーである。必ずしも負担できないわけではないが、、どうなのだろう。大学生のワリカンについては、どちらかとうと個人次第か(奢るのが偉くてワリカンがケチ、というのではなく各々の考え方の問題、ということ)。

 『奢る』ことは、女性からの支持が高く男性は不満を持っていると考えている人もいるかもしれないが、フェミニズムの立場からは『奢り』は無くすべきだとの主張がある。それは女性の社会的立場を下に規定する文化であり、女性の人権を〜〜云々。たしかに、僕の高校時代の友人カップル(比較的高学歴で自立心の強い女性が多い)はワリカンであることが多いようである。女性にとって『奢り』が必ずしも良いかというとそうでもないのかもしれない。


まとめ。ぼくは今お金がないので、愚痴を聞いてくれてお小遣いをくれるお姉さんと仲良くしたいです。